1月3日は宝塚歌劇団を創設された小林一三先生の生誕日でしたね。お誕生日からお名前がつけられていたんですね。
大劇場公演中の星組さん花組さんは公演後、「すみれの花咲く頃」を大合唱されていたそうで、この日ご観劇だった方はラッキーでしたね〜!
さて、そんな小林一三先生。
実業家としても知られる彼ですが、初めから現在のような華々しい歌劇団を作ろうとして、宝塚歌劇団を創設した訳ではなかったことは宝塚ファンならご存知の方も多いのではないでしょうか?
「とある失敗」から生まれた
歌劇団創設のきっかけは、総合レジャー施設事業における「とある失敗」にあったと言われてます。
実業家として現在の阪急東宝グループを創設した小林ですが、当時の小林は大阪-有馬間を繋ぐ鉄道計画を立てていました。
しかし工事の頓挫により、鉄道の開通は目的地の有馬ではなく道中の宝塚までで止まってしまうこととなりました。
あるものと言えば梅林と温泉くらいの田舎であった宝塚に対して、小林は総合レジャー施設「宝塚新温泉パラダイス」を開業する計画を打ち出します。
これは、終点となってしまった宝塚に総合レジャー施設を作ることによって、鉄道の利用客を増進する目的があったと言われています。
1912年(大正元年)、開業した宝塚新温泉パラダイスは利用客の好評を博し、小林の狙いは見事に成功します。
しかし、この施設の目玉の一つであった室内プール「パラダイス」については、とある大きな問題を抱えていました。
それは、プールの水温にありました。
このプールの水は地下水を使用しており、また日光も当たらず、蒸気を用いた温水機能が取り付けられていませんでした。
つまり、プールの水がとても冷たかったのです。
その水温の低さは5分と遊泳できないほどにであったと言われています。
そんなプールに対して、利用客からは当然不評の嵐が続き、最後には室内プールそのものが閉鎖へと追い込まれてしまうことになりました。
宝塚新温泉として温泉事業は続けつつも、目玉の一つである室内プールを失ってしまった小林でしたが、ここで折れることはありませんでした。
小林は更にこの室内プールを改築する案を打ち出します。
水槽は水を抜いて観客席に、脱衣所は人が踊れる舞台へと作り替え、そこに自ら雇った演劇や歌劇好きの少女らを立たせて歌や踊りを披露させました。
これこそが今日の宝塚歌劇団のきっかけであったと言われています。
当時は、無料で公開されている温泉客への余興に過ぎないものでしたが、これが利用客を通して話題を呼び、大阪での公演をきっかけとして東京へと進出することになります。
そこから1924年には宝塚大劇場を開業し、現在に至るまで知らない人がいないほどの華々しい歌劇団へと成長していくことになりました。
このように宝塚歌劇団創設の背景には、小林の文化人としての一面があったと言われています。
小林自身も学生時代や大阪勤務時代の頃から芝居を大変好んでおり、後には新聞での小説連載や宝塚歌劇団の脚本を自ら担当することがあったと言われています。
これらの経験と実業家としてのアイデアを持ち合わせていた小林一三だからこそ、事業を失敗のままで終わらせず、現在の宝塚歌劇団の礎を築くことが出来たと言えるでしょう。
美術収集家
その他にも、彼には美術収集家としての側面もあり、彼が生涯を通して蒐集した5,500点もの美術品は、彼の雅号から名付けた逸翁美術館へと展示されています。
このことからも小林一三には単なる実業家としての側面だけでなく、芝居や芸術に対する審美眼、そして多大な経験が備わっていたことが伺い知れるでしょう。
宝塚歌劇団始まりの地となった宝塚。
そこで営業されていた宝塚新温泉パラダイスは、すでに廃業となってしまっています。しかし、改装を重ね現在は温泉施設「ナチュールスパ宝塚」として今も尚営業を続けています。
鉄道工事の頓挫から始まり、とある事業の失敗から生まれた宝塚歌劇団に想いを馳せながら、宝塚の土地を訪れ、宝塚の湯に浸かってみるのも一興ではないでしょうか。