1995年1月17日の阪神淡路大震災から24年。
あの時の宝塚ってどうなっていたのでしょう?
今のようにSNSもなかった時代、情報も伝わりにくかっただろうに思います。
公演の真っ最中だったろうに、どのような状態だったのでしょうか?
当時の記録から
その当時の記録を調べてみましたが、あまり見つけることができませんでした。
しかし、今後も忘れてはならない23年前の震災。
数少ない情報をまとめておきたいと思いました。
その当時の記録を調べてみました。
1995年1月17日早朝。
宝塚でも震度7という大きな被害を受けました。
宝塚大劇場の公演は?
ちょうど宝塚大劇場では
花組公演(元旦〜2月13日)の予定でしたが、1月16日で中止。
『哀しみのコルドバ』(柴田侑宏)
『メガ・ヴィジョン』(三木章雄)
主な組子:トップ:安寿ミラ
純名理沙・愛華みれ・真矢みき
この公演は安寿ミラの退団公演の予定だったのです。
Wikipediaになくなりかけた安寿ミラの退団公演について書かれています。
その為に一度は自分のサヨナラ公演開催を諦めたが、当時の月組トップ:天海祐希と雪組トップ:一路真輝が「自分らの日程を削ってでもヤンさん(安寿ミラのこと)の最後の舞台をやらせて下さい」と歌劇団に要望し、更に演歌歌手の細川たかしが1995年3月に「劇場・飛天」(現・梅田芸術劇場)で行った自分の1ヶ月公演スケジュールの半分を安寿に譲ったことなどもあり、劇場・飛天で公演の続きを行った。
その上に「安寿の大劇場さよならショーなくしては宝塚歌劇の完全復活はない」と、大劇場でのさよならショー上演を求める全国のファンからの署名活動も展開され、
同年5月4日と5日に『安寿ミラ 宝塚大劇場 さよならショー』が実現。5日にはサヨナラパレードが行われてこれを最後に宝塚歌劇団を退団した。
その時の心境を安寿ミラはのちのインタビューでこう述べています。
サヨナラ公演につきものの「最後の大階段」も「サヨナラパレード」もなくなった。「今思えば、凄く悲しかったんだろうな、とは思います。自分の人生を懸けていた場所の最後で“これか…”と。ただ、天災ですから誰に文句を言えるわけでもない。凄く不思議な感じだった」という。
1995年3月の劇団へ入団期は81期生。
音楽学校の卒業試験当日に阪神・淡路大震災に見舞われた。
初舞台を踏めるかどうかも心配されたが、初舞台公演が復興第1作として無事に公演。
震災に打ちひしがれた阪神間にいち早く夢と勇気を与えた。
初舞台では舞風りら・花純風香・蘭香レアが菩提樹の精のバレエを踊る場面が与えられた。なお、ラインダンスには復興の喜びを表す「第九」が使われた。
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震災の2年前にリニューアルされたばかりだった宝塚大劇場も壊滅的な被害を受けました。
スプリンクラーが作動し劇場内は水浸しになり、コンピューター制御による最新の舞台装置はことごとく破壊され、約130トンの舞台装置を支えていた、直径8センチのボルトは真っ二つに折れました。
また、すべての衣装を保管していた倉庫も水浸しとなってしまったのです。
同年3月31日に大劇場での公演が再開する。
語る20年。元タカラジェンヌ 汐美真帆さん
「東京に来たらと誘ってもらったけど、ここが私の場所だから。宝塚市の復興が宝塚歌劇の復興にきっとつながる、何か私にできることは、と思ったときに、市役所でボランティアの募集してて。車で駆け付けると、すぐにボランティアの送迎役を頼まれた。金髪に男っぽい格好で、タカラジェンヌとばれてたかもしれないけれど、がたがたの道を運転して。いろんな人とつながることができ、元気をもらえた」
宝塚歌劇花組 トップスター蘭寿とむ 阪神・淡路大震災を語る
震災前年の1994年、宝塚音楽学校に入学し、在学中に被災した。「実家は全壊し、大劇場も被害を受けた。大変な状況の中、舞台に没頭することで前進できた」という。
大和悠河