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伝説の男役・天海祐希のここがスゴイ!

宝塚OG

ヅカファンの皆さま、こんにちは!

天海祐希さんといえば、宝塚ファンならずとも名前を知っている有名な元タカラジェンヌです。

彼女は在団中に数々の伝説を残し、風のごとく宝塚歌劇団を去っていきました。

当時を知るファンは天海さんのすごさを知っているでしょう。

しかし、そうでない人もいるはず。

かくいう私も天海さんについて詳しく存じ上げませんでした。

この記事を執筆するために調べたところ、彼女が伝説と呼ばれる理由に納得しましたね。

今回は天海祐希さんのすごさがわかるエピソードについて解説します。

ぜひ最後までお付き合いください。

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天海祐希の伝説4選

ネットで検索すると、天海さんに関する記事は星の数ほど存在します。

その中からネタを厳選してまとめました。

本当はもっとたくさんあったのですが、全てを書き尽くせないのが残念です・・・・・・。

入団1年目で新人公演の主演に抜擢された

天海さんは73期生として入団しました。

高校在学中に受験し、一発で合格しています。しかも首席でした。

演出家の植田紳爾氏が「お母さん、よくぞ生んでくださった」と感謝したというエピソードは広く知られています。

首席で合格するだけでも十分にすばらしいのですが、それは伝説の幕開けに過ぎません。

なんと入団10ヶ月にして早くも新人公演の主役に選ばれました。

上級生たちが「あの子は誰だ?」と騒然となったそうです。

宝塚史上で最速のトップ就任を果たした

通常トップに就任する学年は研10~研15くらいです。

前月組のトップスター・珠城りょうさんは研9で抜擢され、近年まれにみる大出世と称されました。

ところが天海さんは、さらにその上を行く研7での就任。

ようやく新人公演を卒業する学年で宝塚の頂点に立ったのです。

これがいかにスゴイのか、宝塚ファンならおわかりでしょう。

余談ですが、トップになる以前から天海さんは快進撃をみせていました。

入団4年目の時点で6度の新人公演主演と4回のバウホール主演を経験済み

なんと桁外れの数字でしょう。

トップになってからわずか2年半で退団した

人気絶頂の最中、天海さんは1995年に卒業します。

この時点で研9でした。いかに早熟のトップスターだったかわかりますね。

「男役10年」と俗にいわれますが、そんな常識をいとも容易く塗りかえたのです。

しかも卒業公演で大羽根を背負わなかったという逸話付き。

これにはファンが驚いたそうです。

「徹子の部屋」に出演した際に、本人がこう語っていました。

トップになった時点で退団の時期を決めていた、と。

いわく、月組のプロデューサーから後々のスケジュールを見せられた天海さんは『ミー・アンド・マイガール』で潔く身を引く決意をしたのだとか。

それは初めて大きな役をもらった、思い入れのあるミュージカル作品でした。

宝塚のルールを変えた

宝塚は非常に規則が厳しいことで知られています。

天海さんが在団していた時は、男役は外出時に髪をピンで留めるという暗黙の了解がありました。

このルールに違和感を覚えた彼女は、同期と話し合ってピン留めの習慣を廃止。

従来の決まりを変えてしまえるほどの影響力があったのでしょう。

さらにファンの出待ちについても苦言を呈しました。

当時はギャラリーの過熱ぶりが凄まじく、夜の10時以降は集まらないようにファンに進言したのです。

見るに見かねての対応だったのでしょうが、ファンに媚びることなく物申すのはなかなかできないことだと思います。

天海さんのファン嫌いは周知の事実でした。

それはおそらく「熱狂するあまり、マナーを守らない一部のファンが好きではなかった」と表現するのが正しいのかもしれません。

2. まとめ

天海さんのすごさがわかるエピソードは枚挙にいとまがありません。

たとえば段取りが悪いファンを叱責して自らお茶会を仕切ったり、ファンクラブの会員全員に同じワイングラスを贈ったり。

ファンに媚びない、ファンを差別しない。

当たり前のようですが、なかなか難しいことだと思います。

退団してもなお、時代を超越して新たなファンを魅了し続ける。

それが天海祐希というOGなのです。まさに生きる伝説。

唯一無二のタカラジェンヌとして後世に語り継がれるでしょう。

これにて〆とします。

ヅカファンの皆さま、ごきげんよう!